1970年代       (第1部)

1970年代 ほぼ今から45,6年前の事
現在 今年で60歳を迎える僕は 15歳ぐらいの頃です
14歳の時に見た ローリングストーンズの映画
「ギミーシェルター」で吹っ飛んでしまった僕は
よし!  音楽の世界へ突き進む と決意したものでした

そして15歳 中学卒業の春休みに親を言い包め
一路サンフランシスコ ロサンゼルス そして帰りにハワイへの
ROCK現地視察の旅へと飛び立ったのです
なんせ45年も前のこと 確かな記憶があるわけではないのですが、
とにかくその当時 ヒッピームーブメントの真っ只中で
サンフランシスコもロサンゼルスもヒッピーだらけ
ロングヘアーとラッパズボンの大行進で
誰がミュージシャンで 誰がただのヒッピーなのか など見分けもつかず
ただただ雰囲気に圧倒され「これがROCKじゃ〜」
と1人で興奮していたのを思い出します
ただ サンフランシスコとロサンゼルスでは コンサートなどは一度も見られずじまい
そして帰りに寄ったハワイで ついに本場のフェスティバルを体験する事になったのです
それは ダイヤモンドヘッドの裾野で行われたフェスティバルで
一番のメインは サンタナでした
そのフェスティバルには 日本から 今や誰も知らないでしょうが
外道 というジミヘンのコピーバンドも出ていましたっけ
恐ろしいブーイングの中 15分ぐらいですごすごと演奏を終えて
逃げるようにステージから去っていたのを記憶しています
当時僕は 中学時代から グランドファンクやレッドツェッペリンなどなど
いろいろコンサートを見歩いてはいましたが
周りが外人ばかりの中でのフェスティバルなどは 経験した事がなかったため
子供心に異様な雰囲気に圧倒されながらも 心の中で
「これや!」と思ったものです

そして帰国後 一応高校に進学したものの 頭の中はROCKでパンク状態
元々嫌いな勉強などさっぱり手に付かず  一週間でドロップアウト
今から思えば 無茶な話ですが そのまま僕は家を出る事になるのです
当時の京都はというと ロスやサンフランシスコなどとは比べるのはいささかですが
それでも河原町を中心に わけのわからない風天やロングヘアーで
ギターを抱えたミュージシャンもどきが うようよしていました
何でも当時は 京都が日本のROCKの中心的都市だったそうです

そしてその当時の京都で君臨していたのが 「村八分」です
他にも数えきれない程のバンドがいました
ウエストロード  スラッシュ B29 もうはっきりと思い出せませんが
やたらこのように そこいら中バンドマンだらけでしたね

でもやはり「村八分」は他のバンドとは一線を画する存在感を放っていました
よく河原町をチャー坊や富士男くんなどが ウロウロしているを見かけました
眉毛を剃り落とし 異様な匂いをあたりに撒き散らし 普通の人々が嫌悪の目で見るのを
逆に楽しんで街を闊歩する 僕にはそう見えましたね
でも子供心に その異様差がたまらなくカッコ良く見えたものです

今から思うとあの「村八分」というのは 自分たち以外は全部
「村八分」という意味だったのだと思いますね

そして「村八分」に直接接する機会が巡ってくるのです
それはその当時 河原町にあるBALビルの地下にその当時
「ガロ」というその昔のゴーゴークラブがあり
「村八分」はコンサート前などになると その店で練習がてらに
日に2ステージ程 出ていたのです
それを聞きつけて 僕はガロへ出入りするようになるのです

ガロの店内は暗く 洞窟のようなイメージで 確か東元というヤクザがやっていた店です
客もヤンキーやチンピラばっかりだったと思います

その中を「村八分」の面々は 全く客を無視して演奏してましたね
チャー坊は腰のあたりまで毛を伸ばし それは迫力がありました
富士男くんはどちらかというと 小柄で全く人を寄せ付けないチャー坊に比べると
子供の僕にも話しかけてくれたりジュースをくれたり
一度ダバコを吸っていると
「おめえ 未成年だろう 今からダバコ何か吸ってると ろくなもんになれねえぞ」
な〜んて言われたり(あんたには言われたかない!)
とても社交的なところを持った 不良ロッカーでした 

そして その富士男くんとは河原町にあった「六曜社」という
喫茶店でもよく会いました 15,6歳の子供の僕にも気さくに「ヨウ 不良ボウズ」
などと声を掛けてくれ ストーンズの話やその他いろいろROCKの話をしてくれたものでした

話は戻り そのガロでの演奏ですが 1回目のステージではいつもチャー坊は歌いません
富士男くん筆頭に 4人でインストメンタルで曲演奏するだけです
そして2ステージ目から チャー坊を入れた5人で演奏するのでした
ただただはっきり言って 何を歌ってるのかさっぱり意味不明
演奏もはっきり言って ガタガタのひどい演奏でした
でも それが「村八分」なのです それこそが「村八分」の真髄なのです

そしてそれから 円山公園野外劇場 京都会館 レコーディングのあった
西部講堂へと続いていくのです

第1部はここまで
第2部はその後の「村八分」そしてヨーロッパへの旅をお送りします